読書体験

 もはや老眼が進み読書が覚束なくなって来ているが、原点ともいうべき小学生時の読書体験が忘れられない。

 一回一冊しか借りられないため速読して翌日返す。しかもすぐ読み終えるのはつまらないからなるべく分厚い本を借りる。借り出し時に立ち読みして面白いかを見極める鑑定眼と速読術が鍛えられた。人に、そんなに飛ばして読んで実は分かってないんだろうと本の中身を試されて詳細を言い返したことがあった。

 読書の分野は歴史物、SFが多かった。歴史物は登場人物が多いほど多様性に惹きつけられた。SFは特に読み進めるうちに脳内で映像が爆発した様に結実する感じだった。歳をとりその時のような鮮やかな体験はもはや無い。というかほとんどSF読んでない。先日書評を読み韓国作家のSF読んだのが久しぶりのことだった。

 小学生の時の速読術を取り戻したくて40過ぎてからまた読書を趣味とするようになった。でも雑念が多くて昔のような集中力が取り戻せたかは疑問だった。

 後日母校に立ち寄る機会があり図書館を覗くと、あのSFたちが並んでいた。校舎はもはや建て替えられていたのに、当時は新品だった本との20年を経ての再会には興奮した。昔の感動が映像と共に蘇った。そしてまた20年以上が経っている。あの本たちはどうなったかな。

理想の彼女

15,6歳の頃、一度だけ本屋ですれ違った理想の彼女。制服は同じ学校のものでは無かった。その後一度も会ったことは無く、そもそも理想の彼女ということを考えたことも無かった。ただその時直感的に思って、長く記憶に留まった。顔だって忘れてしまっているのに。身内に近すぎるとか何かタブーに触れることだったのだろうか。分析しようにも、ただ一度だけの淡い出会い。まるで頭の中の妄想だ。

散文

文章を書きたい。詩はすでに書いているが、散文を創作したい。黒木渚さんの私小説を読んだところだが、自分の深いところに踏み込まざるを得ないのでしんどい、たとえ私小説でなくても。何ほどのことができるのか。面倒くさがりのくせに。何を目指しているか漠然としているのでつらつらと書き散らかすか。改行もなく。

言葉

年末年始の間、少しも読書しなかった。その分ネットの記事を読んでいるから文章を遠ざけている訳ではない。そもそも言葉を使って思考するのは疲れる、やたらと言葉にこだわっている時は順調な時より、逆境の時だ。疲れるにもかかわらず薄っぺらい自分を何とか励まそうとし、縋るものがあれば縋りたく思う。テレビをぼんやり見ていても響く声を求めている。ドキュメンタリー、短歌、詩歌、音楽、ドラマ、何かしら言葉を求めている。
そして受容しているだけじゃ駄目なんだ、発信しろという内からの声が聴こえる。ただなぞっては駄目なんだ。義務的に発しても駄目なんだ。

ライブ配信

カメラの前で話しかけ歌いかける人たち。距離はとても近くこちらの姿は相手には見えないのをいいことに気楽にコメントを流し、たまには曲のリクエストもする。常連になりギフトもしょっちゅう送っていると気安く無駄口も叩く。ある時は盛んに配信していた人が、配信頻度が減ってくると心配もする。多く歌を繰り返し聴いていると仕事中に脳内リピートが起こる。気軽に聴きに行けて、嫌なら聴きに行くのを止めてしまえばいい。にも拘らず、手当たり次第に手を伸ばすのは忍びなく、義理堅くなるべくお馴染みは大事にしたいと思う。ふわふわとタコの様になってしまうと、大事なものが失われてしまう。時の積み重ねを信じたいのかな。リアルで友達がいなかったり、直にライブに行く元気が無くても、容易にその心の隙間を埋めてしまう。ネットならではの距離感。仮想であるが、もはや多くの時間を費やす現実でもある。配信者にとって、こちらの姿が匿名で正体不明。その距離はリアルのライブに呼び込まれたとして、配信時よりも詰められるとは限らない。ネットならではの気安さがあるからだ。近くて遠い。遠くて近いライブ配信。そしてまた今日もあの人の配信に行く。