椎名林檎さん

10年以上前、職場で半年間近くにいて、声が特徴的で懐かしく感じる人がいた。

なのに当時はなぜそう感じるのかわからなかった。

今から6年前の2015年に椎名林檎さんの曲を聴くようになり、やっと彼女の声が椎名林檎さんに似ていたことが分かった。

彼女も含めて職場の同僚たちとカラオケに行き、彼女も歌った。何の曲だったかは覚えていない。唯一、もう一人が「六本木心中」を歌ったのだけは覚えている。

我らの時代

昔生まれだから

生まれたときには

テレビは無かった

冷蔵庫は無かった

電話は無かった

炊飯器は無かった

電子レンジは無かった

洗濯機は無かった

成長とともに電化製品が揃い

便利さを実感

無い時代と使い始めを両方知ってるからこそ

便利な物があるのは当たり前のことじゃ無かった

ただの時代の巡り合わせだが得難い経験

 

やがてデコボコ道は舗装され

薪ストーブは石油ストーブとなり

今ではエアコン

ソロバンは電卓となり

パソコンが生まれ

携帯電話が普及したと思ったら

たちまちスマホ

テレビはモノクロからカラー

アナログからデジタルへ

ハイビジョンから4K8Kへ

 

まだまだ時代は変わっていく

これらが何も無い時代を思い出す

退屈さ不便さ

時間だけはあったし

逆に貧乏暇無しだったかもしれない

何を得て何を失ったのか

 

読書体験

 もはや老眼が進み読書が覚束なくなって来ているが、原点ともいうべき小学生時の読書体験が忘れられない。

 一回一冊しか借りられないため速読して翌日返す。しかもすぐ読み終えるのはつまらないからなるべく分厚い本を借りる。借り出し時に立ち読みして面白いかを見極める鑑定眼と速読術が鍛えられた。人に、そんなに飛ばして読んで実は分かってないんだろうと本の中身を試されて詳細を言い返したことがあった。

 読書の分野は歴史物、SFが多かった。歴史物は登場人物が多いほど多様性に惹きつけられた。SFは特に読み進めるうちに脳内で映像が爆発した様に結実する感じだった。歳をとりその時のような鮮やかな体験はもはや無い。というかほとんどSF読んでない。先日書評を読み韓国作家のSF読んだのが久しぶりのことだった。

 小学生の時の速読術を取り戻したくて40過ぎてからまた読書を趣味とするようになった。でも雑念が多くて昔のような集中力が取り戻せたかは疑問だった。

 後日母校に立ち寄る機会があり図書館を覗くと、あのSFたちが並んでいた。校舎はもはや建て替えられていたのに、当時は新品だった本との20年を経ての再会には興奮した。昔の感動が映像と共に蘇った。そしてまた20年以上が経っている。あの本たちはどうなったかな。

理想の彼女

15,6歳の頃、一度だけ本屋ですれ違った理想の彼女。制服は同じ学校のものでは無かった。その後一度も会ったことは無く、そもそも理想の彼女ということを考えたことも無かった。ただその時直感的に思って、長く記憶に留まった。顔だって忘れてしまっているのに。身内に近すぎるとか何かタブーに触れることだったのだろうか。分析しようにも、ただ一度だけの淡い出会い。まるで頭の中の妄想だ。

散文

文章を書きたい。詩はすでに書いているが、散文を創作したい。黒木渚さんの私小説を読んだところだが、自分の深いところに踏み込まざるを得ないのでしんどい、たとえ私小説でなくても。何ほどのことができるのか。面倒くさがりのくせに。何を目指しているか漠然としているのでつらつらと書き散らかすか。改行もなく。

言葉

年末年始の間、少しも読書しなかった。その分ネットの記事を読んでいるから文章を遠ざけている訳ではない。そもそも言葉を使って思考するのは疲れる、やたらと言葉にこだわっている時は順調な時より、逆境の時だ。疲れるにもかかわらず薄っぺらい自分を何とか励まそうとし、縋るものがあれば縋りたく思う。テレビをぼんやり見ていても響く声を求めている。ドキュメンタリー、短歌、詩歌、音楽、ドラマ、何かしら言葉を求めている。
そして受容しているだけじゃ駄目なんだ、発信しろという内からの声が聴こえる。ただなぞっては駄目なんだ。義務的に発しても駄目なんだ。